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2015年、突破の美学、インターナップ・ジャパン!

2015年01月

新年明けましておめでとうございます。

2015年の当社のキャッチフレーズは、「突破の美学」です。

「突破」といえば、桶狭間の戦い。最近は研究が進んできて、従来からの定説に色々と疑義も出てきているようですが、信長が「突破」したことは間違いありません。兵力差は、今川軍4~5万に対して織田軍は4~5千、約10倍です。上洛を目指して自領に迫ってくる義元の大軍。対応を間違えば、弱小田舎領主の織田家など、ひとたまりもなく滅ぼされてしまいます。

 この危機的状況を目の前にして、信長は誰にも相談することなく一人で部屋に籠っていたそうです。闘うか服従するかっていたと見る向きもありますが、私は違うんじゃないかと思います。確かに、服従するという選択肢も頭の中でシミュレーションはしていたのでしょうが、それは一応の話。信長の性格からして、服従などは真面目に検討する気がしなかったのではないでしょうか。

 信長が本当に考えていたのは勝つ方法でしょうし、その思考の中で、桶狭間という狭地に大軍を閉じ込めて…というイメージぐらいはあったのかもしれない。でも、それをどうやって実現するかという詳細計画など、まるで立っていなかったのが実情ではないかと思います。

 それでも信長は、今川軍が桶狭間に入り休息しているという情報をつかむとやおら単独騎乗し、「我に続け!」と家臣達に対して何の説明義務を果たすこともなく、居城である清州城の城門を飛び出していってしまった。家臣達は慌てて後を追いかけたそうです。実はこれが凄いと私は思います。普通追いかけないでしょう。こういう即断即行についてこられるような機動部隊の形成を、信長が日頃から意識して行っていたというところが極めて斬新なわけです。

 結果は皆さんもよくご存じのとおり、見事今川義元を打ち取り、ここからおよそ荒唐無稽としか思えなかった信長の天下布武の野望が、徐々に現実味を帯びてくることになります。なおこの時信長は、一番の恩賞を義元の首を取った者にではなく、今川軍が桶狭間で休息しているという情報をもたらした者に与えています。このあたりの衡平感覚がまた独特のものを感じさせますが、よく言われるように情報の重要性がどうとかいうことよりも、この成功において何が一番自分の助けになったかということに対し、常識から離れて自分に素直になれる人だったということでしょう。


信長といえば次は秀吉。秀吉の「突破」といえば中国大返しです。本能寺の変の後、広島で釘付けのはずの秀吉軍が、11日間という当時としてはあり得ない超特急で畿内に取って返し、天王山で明智光秀軍を撃破。時代の風が一気に秀吉のもとに吹いてきたというものです。

 もっとも、この作戦を立てたのは軍師官兵衛であり、秀吉自身ではありません。秀吉はと言えば、農民上がりの自分を分け隔てなく取り立ててくれる主君信長の突然の訃報に触れて、茫然自失だったわけです。ところが官兵衛から、「これは、天下を取るチャンスだ」と言われて急にその気になる。この節操のなさと、瞬時に他人の尻馬に乗れる軽さが秀吉の真骨頂です。

 また秀吉はこの時、兵の士気を高めるために、恩賞として全財産をはたいてしまっている。負ければ次はない戦ですから当然といえば当然なのですが、こういう思い切りというのは、理屈ではわかっていてもなかなかできるものではありません。秀吉の発想は思慮深さがなく、とても軽いのです。

 そして家康。一般的には、信長や秀吉に比べるとタヌキ親父は策略家であり、緻密であるかのように語られますが、それが中々どうして、そうではありません。

家康の「突破」といえば関ヶ原の合戦。家康は秀吉が死ぬやすぐに、豊臣家から天下を簒奪すべく行動を開始しますが、これは大義名分を欠いており、相当に無理がある話です。その無理を知恵者の石田三成にことごとく突かれ、主たる大名はみな西軍に抑えられてしまいました。しかも光成は、豊臣秀頼を手中に収めています。三成嫌いの豊臣の剛の者達をなんとかだまくらかして味方につけたものの、秀頼が西軍の大将として出陣してきたら、その者達の士気が一気にしぼむことは火を見るより明らかです。それは淀殿の猛反対で実現しなかったからよかったものの、それはたまたまであり、決して家康が計算していたとは思えません。


他にも、すべてを計画通りに進める三成に対して家康側は誤算続きです。中でも嫡子秀忠に預けた徳川の主力部隊2万5千余りが、関ヶ原への道中どうでもよい局地戦に気を取られて足止めを食らったために、肝心な時にいないということはまったくの想定外でした。

 この絶対的に不利な状況の中でも、家康は躊躇なく開戦に踏み切ります。それは、「野戦でわしに勝てるものがあるものか」というまったく根拠のない自信に基づく決断でした。戦略らしきものはあまりありません。一方の三成側の戦略は綿密で、布陣も極めて合理的です。後世、結果を知らないドイツの軍事専門家は両軍の布陣を見て、「勝ったのは西軍でしょう。」と言ったそうです。

 しかし、実際に勝ったのは家康の東軍でした。勝敗を分けたのは、小早川秀秋という優柔不断な若殿に対する家康と三成の対応の差でした。秀秋は家康と三成の両方に内応していた二枚舌男です。合戦が始まっても一向に戦いに参加しようとせず、自陣松尾山で日和見を決め込んでいました。そこに利発な三成は何度も冷静に使者を送り、自軍への味方を促しましたが、秀秋はさっぱり動こうとしません。

 しかし、家康の対応はそんなに冷静なものではありませんでした。一進一退を繰り返す戦況にしびれを切らした家康は、秀秋に激怒し、松尾山めがけて大砲を打ち込ませたのです。反発した秀秋が西軍に走れば、それで万事休すであるにもかかわらずこういう過激な手段に出る。
 結果は、「内府殿が怒っとう」と震え上がった秀秋の軍が松尾山を駆け下りて西軍を急襲、これで呆気なく勝敗がついてしまいました。家康の突破の基盤にあるのは、思い付きと感情の爆発なのです。


突破の美学。美しい突破とは何か?状況を詳細に分析し、綿密な作戦をたて、鉄の意志でそれを貫く、そういうことなのか?

いや、違うのです。それでは突破はできません。信長、秀吉、家康、3人の突破の共通点。それはまず計画性のなさです。決定的な行動は、3人とも客観性を欠いた思い込みとも見える自信に基づいて起こされており、それを起こすタイミングも極めて突発性が高く、理性的と言うよりは感情的なのです。突破と言うのは、本来そういう不安定の上に成り立つものですから、必ずしも美しい存在ではありません。どちらかといえば、計算のできない怪しげな代物です。

 ただ3人とも自らの強点について迷いがなく、常にそれを最大限に活かすことだけを念頭に置いて、常識にとらわれない、かなり偏った言動を取ってきます。信長であれば兵力の機動性、秀吉なら自らの人たらしの才覚、家康は野戦における喧嘩殺法、ここに一点集中して戦う。自らの勝ちパターンを信じきり、それだけで突っ走れる心の強さ。これが、最終的には状況を本当に自分に有利なものに変えてしまいます。つまり状況を判断するという受け身な姿勢ではなく、自らに有利な流れを作ってしまう。そして突破する。これぞ突破の美学です。


2015年、当社は色々と新しいことにも挑戦してまいります。困難も多いでしょう。けれども、「技術」「サポート」「英語」という自らの強みにおいては妥協しない。この一点をもって、美しく突破していきたいと思います。 本年も変わらぬご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。

2015 オリジナルひつじちゃん

代表執行役CEO  奥野 政樹
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